› いのちにつながる › 埋め立てられた泡瀬の生きもの達の供養式
2009年01月26日
埋め立てられた泡瀬の生きもの達の供養式
宜野湾のお寺のお坊さんが土砂投入のニュースに胸を痛め、賛成や反対ではなく、私たち人間みんなの欲によって小さな命が奪われているという事で工事現場の入口付近にて供養のお経を上げて下さいました。
お坊さんが読み上げられた表白は、このような内容でした。
「本日ここに泡瀬干潟の埋め立て工事に伴い失われていく、すべての生き物たちの「いのち」の供養にあたり、縁ある人々が集い、その生き物たちを偲びつつ、真実のみ教えに出遭う、仏縁を結ばれんことをねがい、その思いを申し上げさせていただきます。
それよくよく案ずれば、私たち人間は果てしない欲望により、限りなく便利で快適な生活を求めております。私たちのいのちのために生きとし生けるものを採取し、我々の血肉となるだけではなく、それ以上のものを常に殺し、生活しています。また少しでも便利になるならば、不必要に自然までも壊しつづけ、昨今は終にその影響が如実に現れつつあります。
いま、ここ泡瀬干潟においては、わたしたち人間のいたらぬ知恵をもって、多くの生きものを殺しております。その加害者の一人として、また仏様から「すべてのいのちは尊い」と教えられ、その教えを生きようとするものとして、ここに懺悔し、この埋め立て事業によって失われるいのちを弔う儀式を執り行います。
願わくは、仏陀が教える「私たちはこれ以上貪る必要がなく、足りていることを知れ」といういのちの教えに耳を傾け、いまを生きる者として、何を願っているのかをあらためて問い、この果てしない欲求を追い求める生活の中で、真実の生き方を回復したいものです。
今、このときに当たり、失われていくいのちを供養し、私たち人間が生き物たちから願われていることに耳を傾け、すべての生き物を救いたいという阿弥陀仏の本願をよりどころとして、その深い願いに生きることを誓います。」
本当にごめんなさいとしか言いようがありません。
ただ、それだけを思い手を合わせてきました。
海で楽しませてくれた生きものたちのことは決して忘れません。
元の生命豊かな海に戻すからねと約束しました。
諫早湾の海を元に戻す運動もギロチンによって海が締め切られてからが本番だったという話を聞きます。
泡瀬もこれからが本番です。
みんなが幸せに生きていける世の中にしたいと思います。
お坊さんが読み上げられた表白は、このような内容でした。
「本日ここに泡瀬干潟の埋め立て工事に伴い失われていく、すべての生き物たちの「いのち」の供養にあたり、縁ある人々が集い、その生き物たちを偲びつつ、真実のみ教えに出遭う、仏縁を結ばれんことをねがい、その思いを申し上げさせていただきます。
それよくよく案ずれば、私たち人間は果てしない欲望により、限りなく便利で快適な生活を求めております。私たちのいのちのために生きとし生けるものを採取し、我々の血肉となるだけではなく、それ以上のものを常に殺し、生活しています。また少しでも便利になるならば、不必要に自然までも壊しつづけ、昨今は終にその影響が如実に現れつつあります。
いま、ここ泡瀬干潟においては、わたしたち人間のいたらぬ知恵をもって、多くの生きものを殺しております。その加害者の一人として、また仏様から「すべてのいのちは尊い」と教えられ、その教えを生きようとするものとして、ここに懺悔し、この埋め立て事業によって失われるいのちを弔う儀式を執り行います。
願わくは、仏陀が教える「私たちはこれ以上貪る必要がなく、足りていることを知れ」といういのちの教えに耳を傾け、いまを生きる者として、何を願っているのかをあらためて問い、この果てしない欲求を追い求める生活の中で、真実の生き方を回復したいものです。
今、このときに当たり、失われていくいのちを供養し、私たち人間が生き物たちから願われていることに耳を傾け、すべての生き物を救いたいという阿弥陀仏の本願をよりどころとして、その深い願いに生きることを誓います。」
本当にごめんなさいとしか言いようがありません。
ただ、それだけを思い手を合わせてきました。
海で楽しませてくれた生きものたちのことは決して忘れません。
元の生命豊かな海に戻すからねと約束しました。
諫早湾の海を元に戻す運動もギロチンによって海が締め切られてからが本番だったという話を聞きます。
泡瀬もこれからが本番です。
みんなが幸せに生きていける世の中にしたいと思います。
Posted by ほこぴー at 00:27│Comments(0)
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